昭和49年07月12日 朝の御理解


 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」の中から、「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。」

 昨日一時の夏期信行に、吉井の波多野さんがお参りに見えてからお届けされるのに、息子さんが最近お嫁さんを貰われました。大和さんの仲人で、良い嫁さんが見えた「この頃、不思議に自分で作ったお惣菜やら食べる時、一つも御飯がいけんのですけど、嫁さんが作ったのは何でも美味しく頂けて、私が『美味しい、美味しい』と言うもんだから、事実美味しい、不思議な神様の働きを感ずるようになりました。」とこう言う。
 自分が作ったものは美味しくなくて、何か食欲が起こらないと言うのである。「嫁が作ったものは何でも美味しい。神様の不思議な働きが起こっておる事と感じさせて頂くようになりましたら、この頃本当に息子が分からんから、分からんからとばっかり思うておった。本当に信心でもしてくれるとい良いけれどもとばっかり思うておった。その息子がこの頃、大変良い息子に見えて来る様になった。
 もう自分の息子には勿体ない位に思えてくるようになった。それをしみじみ感じて、実は昨日帰りましたら「今日は、一時の信行にバタバタ遅くなるけん、急がにゃ」と言うて思いよりましたら、『今日は、僕が送ってやろう』と言うて、送ってくれました」「神のおかげをおかげと知らんから互い違いになってくる。」と言う事は、この事だと思ったね。今までは「信心してくれると良いのけれども」とか。まあ言うならば不平不足が、いつも子供の上に一杯あった。
 ところが最近嫁を貰って、その嫁が作ってくれるお惣菜が非常に美味しい。そこに神様の不思議を感じる。自分が作ったのは言わば食欲が起こらないけれども、嫁が作ってくれたのは何をしてくれてもも美味しい。だから自然美味しい美味しいと舌鼓を打ち、頂いている様子が嫁に伝わらない筈がない。又は美味しい美味しいと言うのが、只お世辞で言いよるのじゃない事が分かるから、それが嫁に伝わらない筈がない。
 これは不思議な働きだと感じておる。ね。私はその不思議な働きと感じれるまでに、信心の稽古がやっぱりなされなければならない。皆さんが御承知のように二十何年ですかね、熊谷さんとご一緒に吉井から、それこそ毎日病気でない限りは、日参りのおかげを頂いておられる。そして言うならば始めて言わば息子に、不平があり不満を持っておった息子に、良い息子である事が分からせて貰うて、その事がいわゆるおかげであることが思わせて頂くようになった。
 思わせて頂くようになったら掌を返すように、働きそのものが変わってきた。教会に例えば、送って上げようとやさしいことも言うてくれる。私は皆さんが御神前で御祈念なさっている時に、自分の思いがスーッと神様に通った時など、おいさみを頂くでしょう。「ああ、自分が思うておったことを、神様が受けて下さったな。聞いて下さったなという風に、おいさみをもって皆さんがお知らせを頂かれるでしょう。私はそのおいさみと同じことだと思うですね。
 こちらが今までおかげでないと思っておった物がおかげであると気が付いた時に、そうだと思ったのが「お母さん送ってあげましょう」と言う事になった。だからそれが続いて行くと言う事、それが愈々本当なものに育って行くと言う事。それは息子の事だけではない。嫁の事だけではない。一時が万事におかげである、神のおかげであると分からせて貰うと言う事なんです。神のおかげをおかげと分からせて貰うて、互い違いではない、言うならばスムーズな順調なおかげになって来るおかげを。
 私は今日は本当のおかげだ。ここん所を今日は私は分かって頂きたいと思うです。私は今朝方、お夢を頂いた。昔のあれは泥棒装束というでしょうかね、龕燈装束黒衣を着て、真っ黒黒装束です。それに覆面を泥棒被りに被った人が、少し勾配になった道をです、言うなら自転車に乗って適当な速さで、言わば足は下にペダルの上に置かず、下にぶら下げて、踏まずに自転車がスーッと通って下って行くところを頂きました。お夢とも御心眼とも分かりませんでしたけれども、起き掛けにそげな夢を頂きました。どう言う事だと、皆さん思われますか。
 まあ泥棒装束と言う事は悪い事と言う事だと思うですね。自転車というものは自分で踏んで行く。自分で踏まなければ止まるんですけど、丁度下り坂にかかっておる。世の中には、信心せんでも非常に順調にいっておる人がありますね。言うならあげな奴がと思うような、悪いことするようなことをしながらでも、金儲けのためならどげなことでもするという人でも、順調にスーッと下っとる場合がありますね。踏まんでも。自分が自転車踏まんでも、信心があってもやっぱりそうですよ。ね。
 私は今日のところから頂きますとですね、おかげをおかげと分かって、互い違いにならんで順調にいくのなら、それは本当のおかげだと思うですね。うでしょうが皆さん。神のおかげを知らぬから互い違いになるのですから、神のおかげを知って順調さが出て来るというのが、本当のおかげなのです。そういうおかげはです、次に「信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る」。そういうおかげが続いて行くおかげであって、始めていわゆる一年勝り代勝りのおかげに繋がるのです。
 皆さん今日はたったここん所だけですから、ここん所を一つ本気で取り組んで頂きたいと思うです。おかげをおかげと識り悟らせて貰うて、それから順調さが出て来る。互い違いじゃない。そういうおかげがこりゃあ代勝りのおかげに繋がるのですね。今まで困った事だと思うておった事がおかげであると気付いた。そのおかげと気付かせようとする、その働きがあるんです確かに。それに気付かないのです。
 波多野さんの場合は嫁さんが作るお惣菜の事からです。何かそういうものを感じておられる所にです。嫁と息子との繋がりから、嫁の作ってくれるお惣菜が美味しい、自分が作ったのでは食欲がつかん。はっきりそういうふうに神様の働きをそこに感じて、そして今まで息子に持っておった不平不足が間違いである事に気付いて、成程信心こそせんけれどもです、良い息子であったと言う事に気が付いた。
  良い息子所か私には勿体ない様な息子である事に気が付いてお礼を申し上げる様になったら、それこそ「そうだ」とおいさみ下さるように「お母さん、今日は僕が送って上げよう」と言う様な働きになって来た。そういうおかげが続いて始めてです、子孫繁昌家繁昌であり、一年勝り代勝りのおかげが受けられる様になるのである。そういうおかげであって、神様の大恩を愈々大恩として。
 実感として感ずる事が出来るようになるのです。だから神のおかげをおかげ、おかげであるのについ不平不足を言っている事が沢山ありはせんでしょうか。神様のおかげである事をです、おかげとも思わずに不平不足ばかりを言うたり、そこだけを見ておる様な事はないでしょうか。それでは本当のおかげには繋がらないと言う事。頂いておっても一年勝り代勝りのおかげにはなっていかないと言う事。おかげをおかげと分からせて貰うて、互い違いではないおかげに入っていく。
 そこで信心をしておっても、言わば信心の無い人達の場合です。信心もしなさらんけれども、非常に順調に行きよる所はですまあ言うなら今日、私神様の気感に適わない事をしながらでも順調に、商売なら商売が繁昌しておるというのは、丁度下り坂にあっておる様な人ですから、ペダルに足をかけなくとも、ぶら下げとるだけで、ハンドルをこうやって持っとるだけでです、順調にドンドン下って行きよるけれども、是が一つ坂道に掛った時に倒れると言う事はもう必定であります。
 その力も力みもせずただ順調に言っておる所だけを見て「信心もせんのにあんなに順調に行きよる」という見方は間違いであります。是は真の道をしきりって真の信心を知らなければです、まあ大体において良い事じゃないです。それは泥棒龕燈するわけじゃないでしょうけれども、言うならば法則に従わない生き方で順調さがあるというのは、矢張り人生には登りもあれば下りもある。その下りに丁度あっている人達の姿です。だから信心の者が見ておると「もう危のうしてこたえん。」
 と言う事になるのです。神のおかげを知らんでも互い違いではない、順調、置いた物を取るようにしていっている者もありますけれども、それは先ずは本当のものではない。信心を頂いておりましても、おかげをおかげと気付かんなりに、おかげを頂いておるとするならばです、それは一年勝り代勝りという様な代勝りのおかげではないと言う事を、一つ分かって貰わなければならない。
 一年勝り代勝りに繋がっていく様なおかげは、おかげをおかげとして分からせて貰うて、お礼を申し上げるという生き方。只それがその面だけでも分からせて頂いたら、神様がおいさみを下さって「そうだその生き方で行けよ。その生き方が間違いないぞ」と、教えて下さるようにです、波多野さんの場合は早速、良い息子さんが良い息子としての働きを現してくれる。「お母さん今日は僕が送っていきましょう」。
 「本当に掌を返す様なおかげです」と波多野さんが言われます。そういう信心をです、育てて行く事。私どもの周辺にはそういうふうに困った事だ、不平だ不足だと思うておる事のなかに、皆んな神様のおかげだと気付くというが、やっぱり悟らなければいけません。だからそこに焦点を置いてです、そこん所の稽古をして行く事がです。愈々一年勝り代勝りに繋がる様なおかげを頂いていける事になります。今日は「おかげを知らぬから互い違いになって来る」と言う所だけに焦点を置いて聞いて頂きました。
   どうぞ。